テーマ「近江の歴史」のブログ記事
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2012/03/23 09:43
神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。 後にこの地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ それ以降佐々木源氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬していた。婆沙羅大名の佐々木道誉や江戸時代天保年間に消失した社殿を再建した丸亀藩主京極高明、日露戦争203高地の戦いで有名な乃木希典もその一人である。現在も宇多源氏・佐佐木源氏(佐々木家、六角家、京極家、朽木家、黒田家、馬淵家、堀部家、青地家、曲直瀬家、森川家、三井家など二百二十余姓)末裔の篤い信仰を集める。
楼門
江戸時代中期(延享4年、1747年)、平安時代の様式、葭葺、二層門
拝殿
江戸時代後期(弘化5年、1848年)、桁行・梁間とも三間、方形、大工水原源四郎俊勇、
本殿
少彦名神
勾玉
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2012/01/29 09:16
第一鳥居
第二鳥居
田村神社は征夷大将軍・坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇および倭姫命(やまとひめのみこと)を祭る。
田村神社のご祭神「坂上田村麻呂公」は、平安初期の武人で、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、恒武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕え、その忠勲と蝦夷征伐等のご功績は後世まで高く顕彰され、有史以来およそ匹敵するものはありません。征夷大将軍に任ぜられたことは、あまりにも有名です。
田村神社は、東海道の難所である鈴鹿峠の近傍に位置し、京都からの伊勢参宮の要衝にもあたっています。
弘仁元年 (810)、ご祭神である田村麻呂公は、嵯峨天皇の勅を奉じて、当時旅人を苦しめていた鈴鹿の悪鬼を討伐され、 その害を除いて、道中の平安を保たれました。しかし、その後悪鬼のたたりで農作物が不作となり、更に
疫病が流行したため、弘仁3年 (812)再び嵯峨天皇の詔あって厄除大祭が斎行され、その霊験あらたかなるによって、以来、厄除の大神として、また交通安全の守護神として、広く崇敬されております。
拝殿
本殿
厄落とし
願い成就清めの道
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2012/01/15 10:37
参道
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、別名八千矛神(やちほこのかみ)です。奈良時代初めの創建という、県下でも有数の古社です。
社伝によると、3世紀後半ごろ、滋賀郡穴太(あのう)(現在の大津市)遷都にともない穴太に社地が設けられ、さらに欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に琵琶湖を渡って現在地に遷され、社殿が造営されたと伝えられています。以後、武士の崇敬を集めて隆盛し、花山天皇(かざんてんのう)の勅額の下賜(かし)され源頼朝の神宝の寄進、足利尊氏の社殿造営・神領安堵(しんりょうあんど)などで実に栄えたといいます。江戸時代には、徳川将軍家の保護も厚かったといいます。
約3万4000平方メートルという広大な境内の入口には、足利尊氏の寄進と伝えられる朱塗りの楼門(ろうもん)が立っています。楼門をくぐると、楓(かえで)の老樹に包まれた玉砂利(たまじゃり)の参道が100mほど続き、その奥に変化に富んだ拝殿と、流造の本殿が立っており、風致(ふうち)に富んでいます。また、社殿南の庭園は、平安時代後期の作といわれ、池を中心とした美しい名園で国指定の名勝です。社宝として、源頼朝や徳川氏の武具が伝えられています。
兵主神社拝殿の左奥にある庭園です。この庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと考えられており、もともと神社の庭としてではなく、鎌倉時代のこの地の豪族、播磨守資頼(はりまのかみすけより)邸の庭園だったといわれています。
庭園は、大規模な地泉廻遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)で、池に中の島を浮かべて出島を作り、護岸(ごがん)の石組みや築山の三尊(さんぞう)石組みなど、造園の妙が感じられる美しさがあり、深い趣があります。また、この池をめぐる小道は、一面苔がむした間を縫って作られており、京都の西芳寺(苔寺)を思わせるようなしっとりとした雰囲気があります。池汀の曲線の様子などに遺構がよく残っており、平安時代後期の作といわれています。国指定の名勝。
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2012/01/14 10:47
教林坊は、推古十三(605)年に聖徳太子によって創建されました。寺名の『教林』とは太子が林の中で教えを説かれたことに由来し、境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩と、ご本尊を祀る霊窟が残され、『石の寺』と呼ばれています。ご本尊は太子自作の石仏で、難産を帝王切開によって助けたという安産守護の言い伝えがあります(これを「我朝、帝王切開の濫觴なり」といいます)。子授け・安産のほか、ご詠歌に「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」と詠われるとおり、どんな困難な願い事も二度詣でれば叶うという「再度詣りの観音さま」として信仰されています。
江戸時代前期の茅葺き書院は、里坊建築の古様式を伝える貴重な指定文化財です。また書院西面の名勝庭園は小堀遠州作と伝えられ、枯れ滝・鶴島・亀島など巨石を用いて豪快に表現された桃山時代を象徴する池泉回遊式庭園です。書院南面にも室町時代と考えられる庭園があり、小さいながら良くまとまった枯庭となっています
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2011/12/08 14:35
比叡山の一峰である牛尾山に神代の昔から比叡山の守護神として大山咋神が祀られていた古社に端を発し、また、大津京遷都にあたり、天智天皇7年(668年)に大和の大神神社より御神霊を迎え大己貴神を国家鎮護の神として祀ったとされているのが日吉大社の創始といわれている。
この二柱の大神を日吉大神と称し天皇から庶民にいたるまで広く崇敬されてきた、更に、約1200年前、伝教大師が比叡山に延暦寺を建立してからは、比叡山、延暦寺の鎮守として栄え、強大な影響力を持つようになったという。
日吉大社は元亀2年(1571年)に織田信長によって焼き討ちに遭ったようで、従って、現在の社殿はそれ以降に再建されたものといわれている。
山王鳥居ー神仏習合の信仰を表わす独特の形、「合掌鳥居」とも呼ばれる
参道
西本宮
西本宮の祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)で、厄除け、家業繁栄、福徳開運などの神徳のある神様とされている。
軒下の4隅に木像のお猿さんが楼門を守っている
本殿 1586年(天正14年)創建、「日吉造りーひえづくり」という独特の形、床下にはかつて仏事を営んだ「下殿」と呼ばル部屋がある(国宝)。日吉造の特徴は屋根の庇が前面と両側面の三面にだけで、従って、背面の屋根は切れたような形になっているところにある。
西本宮より東本宮の間に
宇佐宮 祭神は田心姫神(たごりひめのかみ)
白山宮 祭神は菊理姫神(くくりひめのかみ)、
東本宮
東本宮の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で地主神であり、家内安全、土地守護、子孫繁栄などの神徳のある神様とされている。
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2010/11/27 13:47
小津神社(おづ)
古代豪族小津(おづ)氏を祀ったのが、始まりとされています。のち主神として宇迦乃御魂命(うがのみたまのみこと)などが祀られました。古くから、皇室や武門の崇敬が厚く、足利尊氏(あしかがたかうじ)は南北朝の乱の際に神聖な境内への兵馬の乱入を固く禁じたと伝えられています。境内は約2万8000平方メートルと広く、老樹がうっそうと茂る中に、戦国時代に再建された優雅な本殿が建っています。本殿内の木造の宇迦乃御魂命の女神像とともに国の重要文化財です。女神像は高さ約50cmの上品な彩色像で、垂髪(たれがみ)の頭上に蓮冠(れんかん)を飾り、左膝を立て、その上に宝珠(ほうじゅ)を持った左手を置いています。京都の松尾神社(まつおじんじゃ)・奈良の薬師寺(やくしじ)の神像とともに、わが国三神像の1つに挙げられ、非常に格調の高い趣が漂っています。
5月5日に長刀踊りが行われます。
下新川神社
崇神(すじん)天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が祀られています。毎年5月5日に行われる「すし切りまつり」は、正式名を「近江のケンケト祭」といい、豊城入彦命を、村人が鮒ずしを献じてなぐさめたことが始まりとされ、国選択無形民俗文化財です。
福林寺
こじんまりとした境内には、ひっそりと本堂・庫裏・観音堂・表門が建っていますが、奥の収蔵庫に納められている本尊の木造十一面観音立像は有名です。寺伝によると、平安時代末期の最澄による作品で、国指定の重要文化財です。高さ1.8m、月光を光背として五色の蓮華台座(れんげだいざ)に立ち、豊かな頬やまろやかな肩、胸部、衣の線が非常に美しいです。
また、本堂に向かって境内右側には石造宝塔が二基立っています。これも国指定の重要文化財ですが、右の宝塔は相輪(そうりん)(一番上の九輪)の上半分が失われています。両方ともよく似た形で、四面に格狭間(こうはさま)があり、一面にだけ仏像が刻まれていますが、風化しはっきりとわからなくなっているのが残念です。
東門院
延暦寺開基に際して四境(しきょう)に門が構えられ、比叡山の東門として建立したのが始まりといわれている天台宗の寺。寺名もそこに由来していますが、比叡山を守るという意味で守山寺とも呼ばれました。江戸時代には、朝鮮人街道を通る特使の宿舎になりました。
約4000平方メートルの境内に、江戸時代の建築といわれる本堂・庫裏(くり)・仁王門・護摩堂(ごまどう)などが木々に囲まれて立ち並ぶ立派な寺でしたが、昭和61年(1986)、本堂・庫裏・諸仏が惜しくも焼失しました。本堂に安置され、佳作と讃えられていた十一面観音像も本堂とともに焼けましたが、その後修復されています。
焼失を逃れた護摩堂本尊の不動明王坐像や、境内の石造五重塔や石造宝塔、石造宝篋印塔(せきどうほうきょういんとう)など寺の歴史を物語る美術品が多く残っており、そのほとんどが重要文化財や重要美術品に指定されています。
勝部神社
祭神は、物部布津命(もののべふつのみこと)・火明命(ほあかりのみこと)・宇麻志間知命(うましまちのみこと)。祭神が武神であったことから武家の信仰が篤く、近江国守護の佐々木氏が出陣する際には、必ず勝部神社の竹を旗竿(はたざお)にしたと伝えられています。現在の本殿は、戦国時代に佐々木高頼(ささきたかより)が再興したもので、国指定の重要文化財です。内陣(ないじん)両側の縁が一段高くなっており、正面に付けられた向拝の部分に優れた彫刻の手挟(てばさ)みがあります。
勝部神社は、毎年1月第2土曜日に行われる「火祭り」が特に有名で、近江の奇祭として県の無形民俗文化財に選定されています。
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2010/08/10 13:58
概要
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界文化遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
東塔
根本中堂
最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。20歳の延暦4年(786年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(789年)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(803年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(805年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる
西塔
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2010/04/02 13:43
兵主大社(ひょうずたいしゃ)
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、別名八千矛神(やちほこのかみ)です。奈良時代初めの創建という、県下でも有数の古社です。
社伝によると、3世紀後半ごろ、滋賀郡穴太(あのう)(現在の大津市)遷都にともない穴太に社地が設けられ、さらに欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に琵琶湖を渡って現在地に遷され、社殿が造営されたと伝えられています。以後、武士の崇敬を集めて隆盛し、花山天皇(かざんてんのう)の勅額の下賜(かし)され源頼朝の神宝の寄進、足利尊氏の社殿造営・神領安堵(しんりょうあんど)などで実に栄えたといいます。江戸時代には、徳川将軍家の保護も厚かったといいます。
約3万4000平方メートルという広大な境内の入口には、足利尊氏の寄進と伝えられる朱塗りの楼門(ろうもん)が立っています。楼門をくぐると、楓(かえで)の老樹に包まれた玉砂利(たまじゃり)の参道が100mほど続き、その奥に変化に富んだ拝殿と、流造の本殿が立っており、風致(ふうち)に富んでいます。また、社殿南の庭園は、平安時代後期の作といわれ、池を中心とした美しい名園で国指定の名勝です。社宝として、源頼朝や徳川氏の武具が伝えられています
庭園は、大規模な地泉廻遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)で、池に中の島を浮かべて出島を作り、護岸(ごがん)の石組みや築山の三尊(さんぞう)石組みなど、造園の妙が感じられる美しさがあり、深い趣があります。また、この池をめぐる小道は、一面苔がむした間を縫って作られており、京都の西芳寺(苔寺)を思わせるようなしっとりとした雰囲気があります。池汀の曲線の様子などに遺構がよく残っており、平安時代後期の作といわれています。国指定の名勝。
佛性寺
天台真盛宗の寺院です。木造阿弥陀如来坐像は、平安時代後期に製作され、檜材の寄木造です。膝上に定印を結び、定朝様の阿弥陀如来像の流れをくんでいます。
円光寺
天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の寺院。江戸時代に、観音菩薩を本尊とする長福寺と、阿弥陀如来を本尊とする円光坊(えんこうぼう)とを合併して再興された大寺です。
一見、神社のように見える寺院で独特の雰囲気があります。本堂・庫裏・(くり)鐘楼(しょうろう)・山門などが立ち並ぶが、山門を入るとすぐ目の前にある本殿は、特異な屋根を持つことでよく知られています。正面の屋根だけが前にそり返るように長く延びて、横から眺めると「へ」の字のように、前の屋根だけが異様に長い「流造(ながれづくり)」という様式で建てられています。寺としてはかなり珍しく、全体としては簡素な造りになっています。
本堂前にある九重石層塔は鎌倉時代作の重要文化財です。
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2009/12/18 14:59
正福寺
滋賀県の南端、三重県境に位置する甲南町は、甲賀忍者の里。
正福寺は用明天皇(585~87)の時代、聖徳太子が建立しました。もとは天台宗でしたが室町時代末期に兵火で焼失。寛文六年(1666)僧実堂が現在地に再建して臨済宗に属します。俗に「北向観音」と称しています。
本尊は十一面観世音菩薩、脇仕に釈迦如来と地蔵菩薩を祀っています。建物に本堂・庫裏・山門・鐘楼・弁天堂があります。
造りは三間一戸の八脚門。籠居に仁王像が侍る。 その腰に巻藁を付した姿は、舎人のそれを彷彿させます。
千光寺
寺伝には天平二十一年(749)開基は行基菩薩。甲賀六大寺の一つ川枯寺と称していました。
天正八年(1580)織田信長の兵火により諸堂宇を焼失、その後再建されるもまた焼失。明治十一年、現本堂を建立。 本尊は千手観世音菩薩立像(国宝)。木像四尺五寸。天平二十一年正月に落慶する。
往古は境内に、西住院・備前院・東院・福寿院・新生院・常住院・伊豆院・園聚院・世尊院・中院の十坊がありました。現在はわずかに本堂と、収蔵庫を残すのみとなっています。
大岡寺
僧行基が白鳳14年(684)大岡山に一宇を建て千手観音の木造を安置したのが大岡寺の始まりです。16の坊舎を擁していましたが、寺院が交通の要衝の地でもあったのでたびたび兵火にあい現在の大岡寺は正徳5年(1715)に再建されました。 境内には「芭蕉の句碑」「巖谷一六」などの碑があり、門前には「鴨長明発心之地」碑があります。
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2009/08/17 16:27
甲良神社(尼子)
兵火で記録などが焼失し、いつごろの開基かはっきりわからりませんが、拝殿棟鬼板(とうきばん)や神輿(みこし)に佐々木神社の神紋(しんもん)と同じ四つ目が使われていることから、近江源氏(おうみげんじ)佐々木氏と関係の深い神社だと考えられ、甲良宗廣(こうらむねひろ)が現在の本殿を造営したと伝えられます。
本殿横にある権殿はもとの本殿で、室町中期に火事で焼けた後再建された建物の一部といわれていますが、江戸時代初期の墨書が残っているため、その頃の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されています。建物の背が非常に高く、規模は小さいですがしっかりした造りです。また、直線的な屋根や神社の建物の配置などが、伊勢神宮によく似ているといわれています。
伊勢神宮ににた建物
権殿もとの本殿
念称寺
安土の観音正寺本堂を移築
本尊 阿弥陀如来立像(非公開)
甲良神社(法養寺)
1間社流造の本殿(県有形文化財)は江戸時代初期の建立と考えられる。当地は甲良大工発祥の地といわれており、車道を挟んで日光東照宮を手掛けた甲良豊後守宗廣の像が建てられている。
甲良豊後守宗廣記念館
甲良豊後守宗廣(1574-1646)の偉業をたたえ、幕府作事方(さくじがた)大棟梁職の甲良家に関する資料を展示する資料館です。江戸時代末期に建てられた旧家を利用した展示棟と、新築された研修棟が渡り廊下でつながれています。展示棟には、宗廣自筆の鯉の絵の掛軸や甲良大工道具などの甲良家や宗廣を偲ばせる資料が展示されているほか、収蔵室や談話室もあります。 甲良豊後守宗廣は、甲良町法養寺の出身で代々宮大工の匠家を勤める家に生まれました。関白近衛(このえ)家館門や洛東吉田神社の造営を行い、寛水13年(1626)の日光東照宮人造替の大任を最後に仏門に帰依しました。宗廣の墓所は京都真如堂(しんにょどう)と東京芝の正念寺のニか所にあります。 また、甲良家12代にわたって秘伝「神拝式書(しんぱいしきしょ)」、建築設計基準の嚆矢である「本途帳(ほんとちょう)をはじめ、数々の資料・図面など日本建築学界に多大の功績を残しています。
八幡神社
大鳥居の云われ
勝楽寺
足利尊氏とともに室町幕府創建に活躍し、その豪放無比な言動から婆裟羅(ばさら)大名と呼ばれた佐々木道誉(どうよ)(京極導誉(きょうごくどうよ)、1296-1373)が建立した臨済宗建仁寺派の寺院で、開山は雲海(うんかい)和尚です。
境内には大池があり、勝楽寺が兵火にみまわれた際には、この池のおかげで六脚門・大日堂・大日如来像などが焼失から免れることができました。特に道誉の念持(ねんじ)仏といわれる本尊の大日如来像は、藤原時代の作といわれる秘仏で、その秀麗な姿は際立っており、国指定の重要文化財になっています。
また、六脚門は室町時代の建築様式をよく残し、町指定の文化財になっています。境内横には兵火と風化による損傷が目立つ宝篋印塔があり、佐々木道誉の墓茶道・華道・能楽などの文化芸術に大きな関心と理解を持ち、秀れた文化人でもありました。この勝楽寺に41歳の時から78歳で亡くなるまで隠棲し、尊氏(たかうじ)や義詮(よしあきら)の部下としてだけでなく、相談・指南役として活躍しました。
<重文>木造大日如来坐像 絹本著色佐々木高氏像
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